【対象】
令和3年度版「新しい社会 歴史」
教科書で用いている用語や年代については、学界での研究の成果を踏まえ、解釈や認識の変更が、ある程度一般的になった段階で、見直して変更しています。以下に、おもな変更点をあげますのでご参照ください(掲載ページ数は令和3年度教科書の初出ページ数)。
(1)「仁徳天皇陵」→「大仙古墳(仁徳陵古墳)」(p.34)
堺市にあるこの古墳については、宮内庁は「仁徳天皇陵」としていますが、被葬者についての学術的な検証がされておらず、教科書の表記では「仁徳天皇陵」→「仁徳陵古墳」(仁徳陵という名の古墳)→「大仙古墳」という形で表記を変更してきました。世界遺産暫定一覧表に「百舌鳥・古市古墳群-仁徳陵古墳をはじめとする巨大古墳群-」として登録されたこともあり、平成24年度教科書より、「大仙古墳(仁徳陵古墳)」という表記をしています。
なお、「大仙古墳」は、「大きな山」という意味からの呼称で、「大山古墳」と表記する場合がありますが、弊社教科書では、堺市の所在地の住居表示である「大仙町」の表記にもとづき、「大仙古墳」としています。
(2)「大和朝廷」→「大和政権」(p.34)
学習指導要領では、「大和朝廷(大和政権)」という文言が使われていますが、学界では、3世紀後半は、教科書にもあるように、王を中心に有力な豪族の連合という性格であり、天皇中心に百官が政務をとるというイメージの「朝廷」という語を用いるべきではないという考えが一般的であり、こうした流れを受けて、「大和政権」と表記を改めました。
(3)「問丸」→「問」(p.83)
史料の多くでは「問」と表現されており、職名としては「問」という名称であったと考えられる点や、「問丸」という呼称が、「馬借丸」などと同様に、貴族が身分の低いものを呼ぶ蔑称であったと考えられる点から、「問」と表現しました。
また、近世ででてくる「問屋」の読みについても、従来はおもに「といや」としていましたが、江戸期では特に「とんや」という呼称が用いられたという点から、「とんや」という読みでふりがなをふっています。
(4)「町衆」の読み(p.83)
「町衆」の読みについては、従来の「まちしゅう」を「ちょうしゅう」とし、下に「まち(しゅう)」と示しました。
応仁の乱以後、都市の中に成立してくる生活共同体のことを「町(ちょう:単なる商業地域という意味ではなく、通りをはさむ家々で組織される生活共同体)」と呼び、その構成員である『町衆』は、「町」に寄る人々であり、当時の発音(「日葡辞書」「節用書」など)に従って「ちょうしゅう」と呼ぶべきであると判断し、読みを変更しました。
(5)「天領」→「幕領」(p.114)
幕府の直轄地についての呼称については、従来は「天領」と表記していましたが、この「天領」という呼称が明治以降の俗称であるという点から、近年では「幕領」と呼ぶ傾向になっています。
江戸時代当時は「御料」、「公料」といった呼称が使われていたようですが、幕府の直轄領という性格を端的に示す表現として、「幕領」という表現にしています。
(6)「島原の乱」→「島原・天草一揆」(p.119)
「島原の乱」については、その地域性や性格をより適切に表現すべきとの考えから、「島原・天草一揆」と表記しました。
一揆の中心地域は、むしろ天草であり、宗教反乱としてよりも、農民一揆としての性格を重視すべきであると判断しました。
(7)「踏絵」→「絵踏」(p.119)
禁教令が出されて以降の、幕府のキリスト教徒取り締まりの過程で行われた行為については、従来は「踏絵」という表記をしてきましたが、実際には、踏ませたものと、その行為自体の呼称が異なっていたという点から、踏ませる行為を「絵踏(えふみ)」、踏ませるものを「踏絵」と区別して表記し、正確を期した表現としました。
(8)「清教徒革命」の年代(折込年表)
清教徒(ピューリタン)革命の経緯については以下のとおりです。
1640年 長期議会=王権を制限する諸改革
1642年 第1次内乱=議会派・国王派の内乱⇒議会派の勝利
1647年 第2次内乱=議会派内部(長老派・独立派)の対立⇒独立派の勝利
1649年 チャールズ1世の処刑⇒共和政
1653年 クロムウェル護国卿に就任
1660年 王政復古
このように、革命の過程が長期にわたるため、最近の一般向け年表などでは、「清教徒革命」として特定の年代を示さず、上の個々の事件を示す場合が多くなってきました。現在、中・高の教科書などでも、清教徒革命の年代を示す場合、「1649年」「1642?1649年」「1640?1660年」の3通りがとられています。
弊社の教科書では、「1640?1660年」を採用し、長期議会から王政復古に至る流れ全体を革命の過程としました。長期議会によって進められた諸改革を、絶対王政から議会政治への転換点として評価するとらえ方です。
教科書では、アメリカ独立・フランス革命・産業革命を同時期の大転換点として強調しており、その前史として17世紀のイギリスにおける議会政治の発達を見た場合、長期議会における改革を軽視すべきではないと考え、「1640年に革命が始まった」としています。
(9)「セポイの反乱」→「インド大反乱」(p.161)
この乱の発端は、インド人傭兵(セポイ・シパーヒー)の蜂起によりますが、さまざまな階層の人々が加わり、都市から農村へと拡大した大反乱となりました。これを「セポイの反乱」とすると、反乱の実態・性格を十分に表現できないと判断し、「インド大反乱」としました。
(10)「解放令」→「解放令」(「賤称廃止令」)(p.169)
布告の内容をより正確に示し、人権にも配慮した表現である「賤称廃止令」を併記しました。
1871(明治4)年に出された太政官布告にはもともと名称がなく、その内容から「解放令」、「賤称廃止令」などと呼ばれています。
布告の内容は、「えた・ひにん等の称を廃止して分職業共平民と同じにする」というもので、長年にわたる賤民制度が廃止されたことはいえても、被差別部落の人々の本来の「解放」をもたらしたものとはいえないことから、近年の研究でも、えた・ひにん等の称を廃したことを示す「賤称廃止令」という表現が多く用いられています。
(11)「四民平等」(p.169)
江戸時代の身分制度は、大きく「武士」と「百姓」「町人」に分けられ、百姓と町人には身分上の上下関係がなかったこと、また、えた身分、ひにん身分等は「身分外の身分」という扱いを受けていたとされています。一方、明治時代に江戸時代の身分制度を廃止していく過程では、「四民平等」という言葉が、当時の人々の人口に膾炙しており、近世以来、「四民」を指すものとして、「士農工商」が用いられていました。
平成24年度教科書より、「武士と百姓・町人」という江戸時代の身分制度が定説的な理解を得ているという前提に立って、江戸時代の身分制度の廃止について、明治時代当時に用いられた「四民平等」の語を示すことで、生徒の理解がより深まると判断し、その説明として「士農工商」の語を側注の形で紹介しています。その際、「士農工商えたひにん」という、以前のヒエラルキー的な身分制度の理解に陥らないよう、「武士(士)、百姓(農)、町人(工商)」という形の記述をとり、近世の身分制度が「武士と百姓・町人」である点を改めて示しています。
(12)「ナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)」(p.225)
ナチスの正式名称はドイツ語でNationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei であり、冒頭のNationalについては「国家(の)」という意味とならんで、「国民(の)」という意味があります。従来、ナチスの正式名称は「国家社会主義ドイツ労働者党」と訳されていましたが、最近の学界では、言葉の本来の意味として「国民社会主義?」と訳すべきであるといわれており、こうした趨勢を受けて、教科書では、平成18年度より「国民社会主義ドイツ労働者党」という名称を用いております。
(13)「連合国軍最高司令官総司令部」(p.253)
GHQの英語の正式名称であるGeneral Headquarters of the Supreme Commander for the Allied Powersの日本語訳として、「連合国軍最高司令官総司令部」と表記しています(General Headquartersが「総司令部」、the Supreme Commanderが「最高司令官」、the Allied Powersが「連合国軍」に当たります)。なお、「GHQ/SCAP」という略称が用いられることもありますが(「SCAP」はthe Supreme Commander for the Allied Powersの略)、教科書では一般に用いられる「GHQ」の略称を採用しています。