【対象】
令和3年度版「新しい社会 地図」
令和7年度版「新編 新しい社会 地図」
日本北部の国境線や領土の表示については、検定教科書は全て文部科学省より次のように指示されています。(1)歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島は日本領土として扱い、南樺太と残りの千島列島は未帰属地域とする(領土の色をつける場合は白色とする)、(2)国境線を択捉島と得撫島の間、占守島とカムチャツカ半島の間、樺太と北海道の間、樺太の北緯50度のところに入れる、などです。
北方領土については、領土問題はヤルタ協定、ポツタム宣言、サンフランシスコ平和条約などの一連の国際協定によって“全て解決済み”としてきた旧ソ連との間で対立してきましたが、日本国としては以下のような経緯を踏まえて領土返還を主張してきました。
まず、1854年(新暦では1855年)の「日露和親条約」(日魯通好条約)によって日本とロシアとの国家間の交流が開始されましたが、この条約では、“樺太島については国境を設けず混在の地とする” “千島列島については択捉島と得撫島の間を国境とする”とされました。
そして、1875年、日本・ロシア間の「千島・樺太交換条約」で、日本はロシアから千島列島(条約には占守島から得撫島まで18の島々の名が列挙してある)を譲り受けるかわりに、樺太全島を放棄しました。
その後、1905年、日露戦争終結時の「ポーツマス条約」で、樺太の北緯50度以南をロシアより譲り受け、この状態で第二次世界大戦に入っていきます。
そして、戦後、1951年の「サンフランシスコ平和条約」で、日本は南樺太と千島列島を放棄しましたが、ソ連は、同条約は極東で新しく戦争を準備するものとして、調印を拒否しているため、それがどこに帰属するかは未決であり、日本政府としては、国後・択捉両島は日本国有の領土であって、サンフランシスコ平和条約で放棄した“千島列島”には含まれないとの見解を示しています(地理的範囲としての千島列島については不明としています)。
このように、日本としては、北方領土問題は日ロ平和条約締結のための交渉のなかで解決されるものとして今日に至っています。